二年後には会社を辞めてブリーダーとして生きていくためにいろいろ勉強中です。
2010年9月30日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
狭衣物語は源氏物語と同じく藤原摂関時代の全盛期に書かれた。しかし狭衣物語に出てくる皇后(中宮)・国母はいずれも非藤原氏である。
狭衣物語は嵯峨帝・後一条帝・狭衣帝の3人の天皇が登場する。
嵯峨帝にはおそらく3人の皇后がいたと推定される。これは3后が並立した後冷泉天皇の事例を下敷きにしたのであろう。彼の皇后のうち、おそらく最初に立后したであろう皇太后宮は明らかな記述はないものの皇族(先帝の皇女?)だったと推定される。2番目に立后されたであろう「皇后宮」に関する記述は皆無である。3番目に立后されたと思われる中宮は堀河大殿(賜姓源氏)の娘で狭衣の姉だから源氏である。
後一条帝の中宮は嵯峨院女一宮(嵯峨帝の第1皇女)であるから皇族である。
狭衣帝の中宮である藤壺中宮は、式部卿宮の娘であるから皇族である。彼の永遠の恋人源氏の宮(先帝の皇女)、彼の婚約者だった嵯峨院女二宮(嵯峨帝の第2皇女)、及び彼の最初の正妻・一品宮(一条院の皇女・後一条帝の姉)も皇族だから、いずれにせよ藤原氏出身の女性が狭衣帝の後宮に入りこむ余地はないと考えられる。
2010年9月25日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
源賢法眼集(げんけんほうがんしゅう)は、平安時代中期の歌僧・源賢(げんけん、生年不詳~1020年)の私家集(勅撰集・私撰集に対して、個人の歌集を指す)。成立年代は不詳。全1巻。
現存諸本はすべて同系統であると思われるが、それらの中では宮内庁書陵部蔵本が最も状態が良い。歌数は全部で51首あり、判然とした部立はないが、前半はほぼ四季の順に並べられ、後半部はほぼ雑の歌が収められている。詞書などから判断して、源賢自身が晩年に撰した自撰家集と推察されている。
源賢は比叡山に住した歌僧。清和源氏(貞純親王の系統)の出身で、鎮守府将軍源満仲の息子。母は源俊の娘。大江山の鬼退治伝説で名高い源頼光の同母弟で、河内源氏(源頼朝・義経らの系統)の祖である源頼信の異母兄弟である。父の本拠地から多田法眼あるいは摂津法眼とも呼ばれた。
参考文献は『群書類従』和歌部・『国歌大観』など。また中治由美子著『源賢法師伝考証』に詳しい。
2010年9月20日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
源賢(げんけん、生年不詳~1020年)は、平安時代中期の天台宗の僧・歌人。清和源氏出身。鎮守府将軍源満仲の三男で、母は近江守源俊(嵯峨源氏)の娘。幼名を美女丸といった。多田法眼あるいは摂津法眼などと呼ばれた。源頼光らとは同母兄弟。源頼信は異母兄弟にあたる。
良源・恵心らに師事した。長和元年(1012年)元慶寺別当となる。翌年の長和2年(1013年)に法橋となり、寛仁元年(1017年)法眼に昇進。寛仁4年(1020年)入寂。享年は推定で60歳前後だったと思われる。
家集に『源賢法眼集』が現存する。また『樹下集』20巻という私撰和歌集を撰したといわれるが散逸して伝わらない。勅撰和歌集では『後拾遺和歌集』に2首収録されている。
「九月盡日よみ侍りける」
・秋はたゞけふ計ぞと詠むれば夕暮にさへなりにけるかな(『後拾遺和歌集』より)
2010年9月15日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
源氏物語・狭衣物語はどちらも藤原摂関時代全盛期に書かれたものだが、物語の中に出てくる后妃はほぼ全員が皇族又は源氏で、藤原氏の影はかなり薄い。
源氏物語には桐壷帝・朱雀帝・冷泉帝・今上帝の4人の天皇が登場するが、いずれも中宮(皇后)は非藤原氏である。
桐壷帝の中宮・藤壺中宮(薄雲女院)は先帝の第4皇女であるから皇族である。
藤原氏である弘徽殿大后を母に持つ朱雀帝の後宮には朧月夜尚侍(藤原氏)・承香殿女御(藤原氏・今上帝の母)・藤壺女御(賜姓源氏・女三宮の母)・更衣の一条御息所(氏姓不明・落葉宮の母)などがいたが、彼女たちのうちの誰かが立后したという記述はない。
皇族である藤壺女院を母とする冷泉帝の中宮は皇族の秋好中宮(前坊の王女)である。彼の後宮には藤原氏の弘徽殿女御がおり、彼女が最も寵愛を受けたという記述があるが立后していない。
藤原氏である承香殿女御を母とする今上帝の中宮は源氏である明石中宮(光源氏の娘)である。
そして源氏である明石中宮を母とする東宮及び匂宮はいずれも源氏である夕霧(光源氏の息子)の娘を妻にしている。特に匂宮の2人の妻・中の君(桐壷帝の孫)と六の君(夕霧の娘)はいずれも皇族または源氏である。
当時の現実世界では起こり得なかったであろう皇族(源氏含む)優位の後宮世界は、当時の貴族社会の理想だったのだろうか?
2010年9月11日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
源慶(げんけい)は、平安時代・鎌倉時代の僧侶。
(1)源慶(生没年不詳)は、平安時代後期の歌人・僧。宗派不明。出自・経歴なども詳しくはわかっていない。勅撰和歌集では『千載和歌集』に1首入集。平信範(1112年~1187年)の日記『兵範記』久寿2年(1155年)12月17日条や同じく保元3年(1158年)7月25日条などに見える「源慶法橋」と同一人物とも言われるが確証はない。
*うたた寝の夢に逢ひ見てのちよりは人も頼めぬ暮ぞ待たるる(『千載和歌集』738)
(2)源慶(生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師。上座大仏師。運慶の弟子。寿永2年(1183年)に運慶を願主として書写された『法華経』8巻(重要文化財)の奥書に礼拝結縁者の一人としてその名が見える。承元(1208年)12月には運慶の下で興福寺北円堂諸尊9体の造立に従い、静慶とともに中尊の半丈六弥勒仏(国宝)を担当した。
2010年9月10日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
検校(けんぎょう)は、中世・近世の盲官の最高位の名称、または僧職の一名称。もともとは事務を検知校量することを意味したが、その後それを行う人や、職名としても用いられるようになった。僧職では一山一寺の長吏(寺の長として寺務を統轄した僧職)を指し、高野山では永観元年(983年)に雅真が金剛峯寺検校にはじめて補任された。また寛治4年(1090年)に熊野三山検校を初めて設けて増誉がこれに補任された。比叡山では無動寺・西塔などにも検校が置かれ、その他にも石清水八幡宮・鹿島神宮・祇園社(のちの八坂神社)・北野天満宮・粟田神社・鶴岡八幡宮などの神宮寺において検校職が置かれた。また平安時代においては藤原道長が法成寺を建てて検校を置いたし、院政期には法勝寺をはじめとする六勝寺にも仁和寺に住した法親王が六勝寺の検校としてこれらの寺々を統括した。また法親王を惣検校を称したこともあった。
その後、僧職をまねて盲官職として平家琵琶を語る当道座でも「おとな」を検校を称するようになった。
さて、私はこれからEMSダイエットです。今日は頑張りますよ!
2010年9月 9日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
恵子女王(けいしじょおう、925年~992年)は、平安時代中期の皇族。醍醐天皇の皇孫で、代明親王(醍醐天皇第3皇子)の娘。母は右大臣藤原定方の娘と推測される。桃園宮と呼ばれた。
兄弟姉妹に大納言源重光・大納言源延光・中納言源保光・荘子女王(村上天皇の女御)・厳子女王(関白藤原頼忠の正室)がいる。
1歳年上の摂政太政大臣藤原伊尹の正室となり、贈皇后宮藤原懐子(冷泉天皇女御・花山天皇母)・藤原義孝・藤原義懐らの母となった。応和3年(963年)、懐子・義孝らと共に「宰相中将君達春秋歌合」に加わる。天禄3年(972年)に夫と死別した後、出家した。
正暦3年(992年)に薨去。享年68歳。
勅撰和歌集では『拾遺和歌集』に1首、『新古今和歌集』に2首が入集。
アラフォー婚活
「贈皇后宮にそひて、春宮にさぶらひける時、少将義孝久しく参らざりけるに、撫子の花につけて遣はしける」
・よそへつつ見れど露だになぐさまずいかにかすべき撫子の花(『新古今和歌集』1494)
2010年9月 8日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
山梨県のアルバイトの最低時給は677円です(2009年10月時点)。
山梨県は首都圏の一部をなす地域で、県庁所在地である甲府市での販売・サービス業などのアルバイトや工場内軽作業などのアルバイトが中心になります。甲府駅周辺だけでなく、高速道路やバイパス道路が整備された郊外にも大型商業施設(岡島百貨店・山交百貨店・エクラン・グランパーク・甲府中央商店街など)もあり、アルバイト探しは比較的容易です。
また、四方を山地に囲まれ水質が良好であることから中央自動車道の全線開通以降長野県の諏訪地域とともに精密機械産業が発達しています。
治験バイトはあまりないようなので東京まで出る必要がありそうです。
また、ヴァンフォーレ甲府(Jリーグ)の本拠地が甲府市にあり、山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場などでのイベント会場スタッフのアルバイト求人が期待できます。
山梨県は富士山(裏富士)での観光がありますが、静岡県ほど盛んではないようです。
2010年9月 7日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
剣気褌脱(けんきこたつ)とは、雅楽の楽曲名。剣器褌脱とも表記する。散楽(さんがく)とも呼ばれる。唐楽・盤渉調の小曲(または中曲)。
唐の『教坊記』に剣器褌脱の楽曲名があるので、唐から伝えられたと考えられる。
初め破があったがのちに絶え、序・急のみが伝わる。剣器をもてあそぶ遊戯の伴奏曲であったと言われ、平安時代の相撲節会(すまいのせちえ)には数十人の舞人は疾走し同時に雑技を演じたと伝えられる(『教訓抄』より)が、現存曲には舞はない。この曲は盤渉調に分類されるが、下無音で終止するのであるいは角調に属するとする説もある。打物は鞨鼓を用いず、太鼓と鉦鼓のみという節もある。また鉦鼓のみを用いる唐拍子の特殊な奏法もある。
この種の散楽は「剣気褌脱」(盤渉調)・「輪鼓褌脱」(太食調)・「曹娘褌脱」(角調)が記録に残されているが、現存するのは「剣気褌脱」「輪鼓褌脱」の2曲である。
フコダインを超えるソルウィードの詳細を知りたいとは思いませんか?
2009年から口コミで評価が高まっています。
2010年9月 6日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
兼豪(けんごう、1119年~1189年)は、平安時代末期の真言宗の僧。藤原北家長良流の出身で、丹後守藤原為忠の息子。兄弟には「大原三寂」(常盤三寂)と称された藤原為経(寂超)・藤原為業(寂念)・藤原頼業(寂然)がいる。
曽祖父藤原知綱は白河天皇の乳兄弟。祖父知信は郁芳門院(白河天皇皇女)の乳母子。父為忠は白河院・鳥羽院の近臣で、歌人でもあった。兄弟の「大原三寂」も和歌・漢文に秀で、特に為経は『今鏡』の作者とも言われる。姉妹の一人は平忠盛に嫁ぎ、歌人としても名高い平忠度の母となった(異説あり)。
仁和寺相承院に住した。寛遍僧正に師事して法を受け、少僧都寛経に法を授けたことが知られる。なお寛経は、文治元年(1185年)に兼豪の譲りを受けて権律師に任ぜられている。文治5年1月に入寂、享年71歳。時に法印大僧都だった。
2010年9月 5日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
兼芸(けんげい、生没年不詳)は、平安時代前期の僧・歌人。兼藝と表記する。清和天皇・陽成天皇の時代に活動。大和国城上郡の人。
嵯峨源氏の出身と考えられ、『古今和歌集目録』によれば伊勢少掾古の次男とされる。『尊卑分脈』3-11頁によれば、左大臣源融の曾孫で、源占(融の孫)の子とされるが確証はない。
勅撰和歌集では『古今和歌集』に4首入集しており、詞書から時康親王(のちの光孝天皇)と親交があったのではないかと推測されている。
「仁和みかど、みこにおはしましける時に、ふるのたき御らんじにおはしまして、かへりたまひけるによめる」
(仁和帝、親王であられた時に、布留の滝を御覧じにいらっしゃって、お帰りになられたので詠んだ歌)
・あかずしてわかるゝ涙たきにそふ 水まさるとやしもはみゆらむ(『古今和歌集』396)
*仁和のみかど...光孝天皇。
・もろこしも夢に見しかば近かりき思はぬ中ぞはるけかりける(『古今和歌集』768)
現代ではソルウィードが大人気です。
2010年9月 4日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
兼慶(けんけい、生没年不詳)は、平安時代後期の仏師。大仏師法印・長勢(ちょうせい、1010年~1091年)の子と伝えられる。
彼の名は『水左記』(源俊房の日記)承保4年12月18日条、『法勝寺供養記』、『法勝寺金堂造営記』などに見える。
承暦元年(1077年)12月の法勝寺造営の勧賞(功労をほめて、官位や物品を与えること)で、院助(定朝の孫とされ、院派の創始者となった)とともに法橋に叙された。『僧綱補任』によれば、保安2年(1121年)まで法橋の地位にあったことが判明しているので、彼の没年は保安3年(1122年)から大治3年(1128年)の間と推定されている。
彼は長勢に師事していたと考えられ、円派(長勢が創始した仏師の一派)に属したと思われる。円派は三条仏所(円派仏師たちが京都三条に構えた工房)を本拠地として慶派・院派とともに活躍したが、鎌倉時代以降に衰退した。
2010年9月 3日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
乾元大宝(けんげいたいほう)とは、古代日本において鋳造された貨幣の名。皇朝十二銭(和同開珎・万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝)の一つで、その最後にあたる。天徳2年(958年)に初鋳された。『九暦』(右大臣藤原師輔の日記)および『日本紀略』(平安時代に編纂された歴史書)の天徳2年4月8日条によれば、銭文は阿保懐之(阿保親王の後裔)の書とある。
直径19mm前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。乾元大宝1枚に対し旧銭10枚の交換比率が適用されたと考えられている。当時の貨幣としては小型で鉛が75%以上を占めるものがあるなど、品位は非常に低かったため、流通範囲も狭かったと考えられる。
朝廷はこの乾元大宝を最後に貨幣の鋳造を終了したため、以後の流通は江戸時代まで中国大陸・朝鮮半島からの輸入銭や民鋳銭などが使用されることになる。
おすすめ→バッティング練習マシーン
2010年9月 2日 00:22 / カテゴリ:[ 日記 ]
三重県のアルバイトの最低時給は702円(2009年10月時点)です。
三重県は農業が盛んな県で、特に緑茶(伊勢茶)の生産が盛んです。緑茶の栽培面積・生産量・生産額は静岡県・鹿児島県に次いで全国3位です。また畜産も盛んで、松阪牛はブランド牛として有名です。水産業では伊勢志摩の真珠が世界的に有名です。またアワビ・伊勢エビ・トラフグ・マンボウなどの高級魚介類の生産が盛んなことでも有名です。
工業は特に三重県北部(四日市市・鈴鹿市・津市など)が中京工業地帯の一翼を担う重要拠点でもあり、四日市市の石油コンビナートおよび津市のユニバーサル造船が全国的に有名です。現在は輸送用機器の製造が有名でホンダ鈴鹿製作所(鈴鹿市)・トヨタ車体(いなべ市)があります。
三重県は気候が温暖で交通の便も良いため、住民気質は穏やかな方と言われています。また子供の教育に熱心な家庭が多く、学習塾や習い事が盛んとされる(小中学生の就塾率は50%以上で、東京についで全国2位だそうです)ので、学力に自信があれば家庭教師や塾講師などのアルバイトも期待できるのではないかと思われます。